どうも、ブロガーのきゃわです。
私は過去に会社員をしていた時期もありましたが現在はブログを書き続ける毎日を送っています。
社会性の乏しかった私は会社勤めが非常に苦痛でした。朝起きるのもつらいですし人とコミュニケーションを取るのもやっとという感じでした。
そのくせ自分自身はずっと「何者かになりたい」という欲求を抱えてはいるものの社会性が乏しいので「何者にもなれない」という状態が続いて悶々とした日々を送っていました。
そんなある日たまたま見た動画で「どんなにすごい人でも代わりはいる」という内容を見まして、最初は「本当にそうかな?」と思ったのですがよくよく考えてみると「社会的立場における人間の代わりはいくらでもいる」と思うようになりました。
上記についてこれから深堀していこうと思います。
社会的ポジションの穴埋めは常に行われている
社会における穴埋めは常に行われています。
例えば会社は、現場の作業員が1人辞めれば穴埋めのために別の誰かをその現場に派遣するとか新たに雇う必要がありますよね。
これは現場レベルの話ではなく役員レベルでも同様です。
社会的ポジションが高い低いに関係なく、どこかのポジションが空けば誰かが穴埋めする仕組みになっているのです。
穴埋めは社会の仕組みです
人間の社会は良くできていますよね。
人間が作る組織は基本的に誰か1人の力で動くものではありません。それぞれが分業して組織を1人の人間に見立てて動かしている訳です。
人によって役割は違う訳ですが、どれだけ重要なポジションについていたとしても代わりはいくらでもいるのです。
適任かどうかはあまり重要ではありません
もしかするとあなたの職場で新たな人事が発表された時に「あの人は新しい課長にふさわしくない」と感じる人もいるかもしれません。
ですがふさわしいかどうかとかその人が適任かどうかはあまり関係ないんですよね。社会における組織とは、各々がそれぞれの役割を遂行することを求められます。
例えば作業の管理をする人もいれば管理者の指示に従って仕事をする人もいる訳です。
その組織に所属する人材や現在の状況を加味した上で、空いたポジションに誰をあてがうのかを決めていくのです。
その際あまり結果を残していない人が選ばれる可能性もある訳ですが、それは組織の現状を加味した上で決定された判断なのでその人が適任かどうかはあまり関係ありません。
何者かになる必要はありません
社会における穴埋めが常に行われる以上「何者かになる」ことにあまり意味はありません。
極端な話、あるプロスポーツ選手が現役時代にスーパースター選手だったとしても、その人が引退すればまた新たなスーパースター選手が生まれてくるのです。
どんな業界にもすごい人や結果を残す人はいる訳ですが、それでもその後にすごい人や結果を残す人がまた出てくる訳です。
私は結果を残している人を否定している訳ではありません。
ですが社会の仕組み上すごい人は次々に現れます。そんな中で「何者かになる」ために頑張る意味があまりないと思うのです。
気楽に生きていけばそれで良いはずです
「何者かになることに意味がないのであればずっと怠惰に過ごしていければ良いのか?」という意見が出てきそうですがそうではありません。
私が言いたいことは「もっと気楽に生きれば良い」ということです。
「何者かになる」ことを目標にして頑張っても自分よりもすごい「何者か」がすぐに現れて落胆するだけです。
ならばいっそ「自分の代わりはいくらでもいる」と割りきってしまえば、見えない「何者か」に怯える必要もないはずです。
焦る必要はありません。自分の代わりなどいくらでもいるのですから、気楽にそして気長に努力すれば良いのです。
【注意】個人としてその人の代わりはいないと思う話
ここで注意して欲しいのが、個人としての代わりはいないと思う点です。
今までは社会的側面からの個人を論じてきましたが、その人個人の代わりはいないはずです。
例えば私の父親は1人しかいませんし母親も1人しかいません。そういった血縁関係や親密な友人関係におけるその人の代わりはいないと思っています。
社会的側面から見る人間個人とは別物として考える必要があります
人にはいろいろな側面があります。
例えば社会的側面から見ればある人は一企業の部長かもしれませんが、ひとたび家に帰ればただの子煩悩な父親ということもあります。
社会的側面から個人を考えるとどうしても役割を考えなければなりません。
例えば物を売る人、安く仕入れようとする人、売るための商品を作る人など様々な役割があります。社会的側面から見る個人とは、役割ありきのものなのです。
しかしただの個人として考えた場合、社会的役割を考える必要はありません。
例えば旅行中に出会った見ず知らずの人に自分の社会的立場は関係ありませんよね。
なので社会における個人とプライベートな個人は全く別物なのです。
そして社会における個人には代わりはいるかもしれませんが、プライベートにおける個人の代わりはその人以外にはいないのです。